千葉詩話会》実施 報告 〈 J 〉

Home Top次回ご案内実施報告目次 〉 

 

2024年1月20日・1月例会報告

 1月例会は自作詩朗読と合評だけの会となった。参加者は10人で、力作がそろい熱気ある会となった。司会は秋元炯さん。


合評作品 池田久雄「帰宅難民」、長沢矩子「言葉」、松田悦子「『慈愛』という名の立像よ」、樋口冨士枝「元旦」「八十五歳の小さな旅」、

朝倉宏哉「眠れない夜」、秋元炯「会議と猫ども」、村上久江「わたしよ」、片岡伸「十一月、わたしの秋に」「盛夏」、
よしおかさくら「朝」、根本明「序奏」

    

○片岡 伸「盛夏」


早朝、起き抜けに散歩。
百日紅やヤマユリの咲いている耕地なかの
蝉しぐれの坂道を、田んぼに向かって下る。
もともと小川だったところに
コンクリートの柵を無造作に入れた用水路の方から、
時がよみがえって来るみたいに
微かに、次第にはっきりと、
生まれたばかりの光が跳ねる水音が聞こえてくる。

用水路のそばに佇めば
橋の下から泥まみれに身体を汚して 人の気配。
隣り部落の ひとつ年上、健一さんの 玉の笑顔だ。
膝うえまで水につかり、青い竹竿で仕掛けた網を
ぎりぎり、ぐいぐい、思い切り手繰っている。
ナマズや外来種のバスに混じって
泥亀、ヒキガエル、オタマジャクシ、
けれど 馴染んだ鯉や鮒は見当たらない。

――と思いきや、
車の荷台の籠の中には 見事な二匹のウナギ、
健一さんの気持ちのように、思わず爽やかになる。
記憶の風景とは似ても似つかぬ小川のあり様だが
水の精は、まだ死んではいないようだ。

しゃがんで 橋のたもとから奧を覗いてみる。
幼いころ脳裏に投影された、清冽な水面の反射や
せせらぎの、甘い匂いのする光景が瞬く間にめぐり
その初々しさを、この胸に たたむ。

2024年2月17日 2月例会報告
    司会・村上久江。出席・秋元炯、よしおかさくら、柿沼オヘロ、長沢矩子、河上類、根本明

左列:手前から2番目=河上類氏

河上類詩集『景観の分類』を読む(2022年11月発行、私家版)
 この詩集は2023年の「花賞」候補ともなり評価の高かった著者の第一詩集。作品「東の干潟」「遠景」「幕」「マグノリア」「岬の観測所」を読み合せた。


「東の干潟」について ・干潟と都市、太陽と月、かたい生きものとやわらかい生きものとか対立的なものが出てきて、逃げ場のない精神を表現しているようだ。(秋元)
・朗読のしかたが作品に見合っている。しなやかな青春性が感じられ、抒情が新鮮でとても若々しい。(朝倉)
・一読して親近感を覚えた。干潟は自分の書くテーマそのもので、こうした作品は少ない。。(根本)


「遠景」について ・「熱のある室料」「析出」「蹄鉄のような折り鶴」など科学的な独特の用語で論理的文体を作り上げていく。分かりにくいが魅力がある。(根本)
○「マグノリア」マグノリアとは木蓮のこと。・金星、木星、彗星、土星が花の名とともに書かれ、宇宙的表現のなかに切実な気持ちが込められている。(朝倉)
 学術用語。数値の固執、論文ふうな文体のなかに若い抒情が流れていて読者を惹きつける詩と言える。最初の詩集であり、今後の大きな可能性を期待できると思えた。

 詩集『景観の分類』から


東の干潟
東の干潟に存在する無数の三角錐や、それを見守るようにして配置された二十三の鳥居、それらを見下ろし南中をつづける瓜のような太陽は、いったい誰のために用意された墓標であったか。その答えを見つけることができぬまま、私は十七度目の春の夜を迎え、いつしか真昼の月の幻覚を見るに至った。真昼の月と真昼の太陽を見分けることができなくなったのは、果たしていつのことだったろうか。あの日、東の干潟に甲殻類の骨片を集めた白い雨は、私の住む街にも降りそそぎ、庭の隅に咲く彼岸花を血の通わぬ銀細工に変えてしまった。

春の来ない干潟には、塩味を含んだ季節風が吹いていて、干潟に棲むかたい生き物たちを一日中転がしている。干潟には、かたい生き物のほかに、やわらかい生き物もいて、彼らは泥を第一の友人として巣穴で暮らしている。私が柔らかな砂地に突き立てた風車は、気まぐれに回ったり止まったりを繰り返していて、干潟の生き物の一日を見ているかのようだった。代謝をやめた生き物は、冷徹な太陽によって審判が下され、四角い紙片の上で骨片に解体される。私はその骨片を拾い集めて、都市の煤煙のなかで焼いたのだった。

第二薄暮の時刻。干潟に注ぎ込む河口のそばに立ち、夕凪のなかで耳をすまして、海風の方角を見定めよ。そして、昨晩見た明晰夢の生家に向かって、着実に遡行せよ。見よ。春の海に食われた記憶が、夢の位置から狙撃しようと息をひそめて待っている。

都市から吹きつける塩味のない風は、ひどく乾燥していて、私の肌をこわばらせる。いまだ南中をやめない太陽は、干潟の生物をことごとくほろぼそうとしていて、都市の住人たちはその企みを阻止することができないでいる。氷のような午睡の時間を打ち破るのは一体だれか。昨晩誕生したばかりの二十四番目の鳥居の影が、いつまでもいつまでも私の顔を見つめている。

遠景
地球のどこかでは昼であること。地球のどこかでは無風であること。地球のどこかでは雨が降っていること。そのような「どこか」の事実の集積が、私たちの視界にたしかな背景を与え、目の前の静物に熱のある質量を投下していく。いま山の稜線に沿って析出してきた胡粉色の霧が、遠景のなかでゆるやかな領域を占め、私たちに重心の位置を開示していく。それに応じるようにして、私たちは、足を肩幅に広げ、そっと重心の位置を開示していく。そうだ、私たちは、遠景と無関係に存在することができないのだ。

例えば、焼却炉に押し込められた一羽の折り鶴が、ほそい悲鳴を上げ、私たちの鼓膜がそれを捉えるとき、私たちの心は、この七畳半の部屋のなかに限定されていく。鳥籠のなかに入れられていたのは、色鮮やかな鳴禽ではなく、蹄鉄のような折り鶴だったか。

ふるさと以外に愛することのできる景色を持つ者にしか分からない、ふるさとの座標というものがあり、それは一般に、ある遠景と別の遠景との関係として理解される。遠景のなかへ青い回送列車が帰ってゆくとき、私たちは無意識に、次の遠景を視界の端にさがしている。私たちを遠景から切り離そうと試みる遮断機の音が響き、それに伴って、私たちの重心の位置がわずかに引き取られてゆくとき、私たちはたぶん、根源的な恐怖を感じることになるだろう。実体のない静物が、その空洞のなかから私たちを見つめるとき、その静物こそが私なのだと気づくのに、そう長い時間は必要ない。引き続いて発生する短い悲鳴ののち、私たちはやがて、あの遠景に抱かれてゆくのだろう。

いま目の前に一羽の折り鶴があり、それと遠景との関係を認めない限り、重心の位置が開示されることはなく、また我々は、この場を離れることができない。遮断機が下り、短い悲鳴がそれに続くとき、私たちはふるえる指先で、重心の位置をなぞるのだ。

★合評参加作品 秋元炯「冬至祭」、朝倉宏哉「人攫い」、河上類「平熱」、根本明「鬼に打たれるということ」、

村上久江「いのちの反乱」、よしおかさくら「宇宙虎さん」、柿沼オヘロ「絵図にひそむように」

〇 2024年の予定(毎月第3土曜日)

3月 松田悦子詩集『あかんたれ』を読む
       4月 よしおかさくら詩集『プチフール一丁目に住みたい』を読む

5月 根本明「『十六夜日記』のこと」
              6月 14周年記念講演 野村喜和夫さん                                                      

 

………………………………………………………………………………………………………………………

Home Top次回ご案内実施報告目次

Copyright(C) chibashi-Shiwa All Rights Reserved.