「詩話会冊子4号」作品
揺蕩う浮舟 大掛史子
はるばると十年の歳月を渡ってきた
美しき語りべ の京ことばによる源氏語りライブ
「桐壺」から「明石」では光源氏の青春と挫折を
「澪標」から「藤の裏葉」では栄華を極める源氏
「若菜」から「雲隠」ではその苦悩の晩年が語られ
なめらかに宇治十帖に入り
「匂兵部卿」から「早蕨」では薫と匂宮が登場
「宿木」「東屋」を趣ふかく過ごして
「浮舟」にまでたどりついていたのだ
コロナ禍で突如語りライブが中断されるまでは
冬から春さらに酷暑の夏へと浮舟は一向に進めない
あと一年語りおおせば
「夢の浮橋」までたどりつく筈だった
薫大将と匂宮二人の貴公子の愛のはざまで
行きどころなく揺蕩う浮舟
橘の小島の色はかはらじを
この浮舟ぞゆくへ知られぬ
薫と契りながら
匂宮の激しい川波を避けられず
宇治川の奔流に死出の道を求める浮舟
いやまだそこまで語り着いてはいなかった
せめて「浮舟」の帖を語り終えていたのなら
今女房は唇を噛む
悪菌終息への出口の明かりはまだ見えない
語り会場アトリエの優雅な三密は
「蜻蛉」「手習」「夢の浮橋」を越えての
未踏の完結を阻みつづけている
*語りべ 声優 山下智子氏
祖父のハードル
翔(201114)
「昔のなじみに会ってくらあ」と
八十代半ばを過ぎた祖父が
旅支度を始めた
簡単だ
いつもの着物に古びた帽子 草履ばき
持ち物は信玄袋ひとつだけ
路銀も有るのやら無いのやら
どこに行くのと尋ねれば
「まあ湘南あたりさ」という
祖父の「昔のなじみ」って
いま何歳なんだ
午前の授業をサボって東京駅まで見送った
そしたら祖父がぴょこんと頭を下げて
「ありがとうございます」と言った
「…ございます」ってなんだよ
誰に言ってるのかと戸惑った
そんな祖父を改めて見ると
小さくなってしまった背の丈は
僕の肩ぐらいまでしかないと気がついた
音沙汰もなく
ひと月ほどが過ぎたある日
ちょっと煙草を買ってきたといった顔の祖父が戻っていた
「昔のなじみはどうだった」と冷やかし半分尋ねると
「みんな ばばあになりやがって…」と呟いた
それっきり
昔は家にはたまに帰ってくる
そんな祖父だったという
僕はいま あの時の祖父の年齢に近づいているが
昔のなじみが「みんな ばばあ」だったとは…
祖父の残したハードルを
見上げるばかりだ
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